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2022/01/24
  • 校長の声

No.59 未来への声・過去への響き

 No.59 未来への声・過去への響き 

 

前回、三つの俳句を並べました。

渡部勇毅君(看護科1年生)の句―「腹見せて消費期限の蝉が逝く」
芭蕉の句―「やがて死ぬけしきは見えず蝉の声」
私の駄句―「年も逝く逝くまでは鳴け蝉のごと」

 

その後、作家・平野啓一郎氏の「分人主義」という考え方が気になって氏の著書を読みかじっているうち、『ある男』という無愛想な(有島武郎の『或る女』を意識したような)タイトルの長編小説(単行本で351ページ)の終わり近く(343ページの最終行)、ドラマがクライマックスを迎えるところで、次の俳句に出くわしました。

 

「蛻(ぬけがら)にいかに響くか蝉の声」

 

句の作者は中学生。彼の言葉―「公園の桜の木に、蝉の蛻がひとつ、とまっていました。/(改行)木の上では、蝉がたくさん鳴いていました。/僕は、この蛻から飛んでいった蝉の声は、どれだろうかと耳を澄ましました。そして、残された蛻は、七年間も土の中で一緒だった自分の中身の声を、どんなふうに聞いているんだろうと想像しました。/蛻の背中のひび割れは、じっと見ていると、ヴァイオリンのサウンドホールみたいな感じがしました。そして、蛻全体が、楽器みたいに鳴り響いているように見えたので、僕は、この句を思いつきました。」

蝉の抜け殻は、今は「物」になっていても、ここでは、途切れない一つの命の、新しい鳴動の共鳴体と感受されています。
蝉において、「未来」へ向けて正に命懸けで「今」を鳴く声が抜け殻(「物」)へ響いているのではと感受したとき、鳴いている命の母胎だった抜け殻(「過去」)があってこその「今」なのだと、初めて「過去」という「もの」を発見できたのでしょう。

一つの年が逝っても、途切れることなく、次の年は続きます。一つの命が逝っても、類の存在は途切れません(地球環境が健在ならば)。「物」になっても「今」と共に生きる「もの」はあるとして、しかし、それも、「物」(「過去」)においては、自己の計らいの外のこと。
親と子がそう(『ある男』のテーマ)なら、教育(教師と生徒)もまた? 

平野氏の著書は『ある男』も『私とは何か―「個人」から「分人」へ―』も本校図書館にあります。

写真は、高村光太郎の木彫作品「蝉」という「物」。そして、「未来」が見えつつある新校舎の現況と校長室内の「今」のお花です。

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